拠り所は自分自身だろう(自灯明)

ブログにお越しいただき、ありがとうございます。

私たちは、親、先生、先輩、友人、同僚など、本当に多くの人から教えや助言をいただいて生きています。私も、そうした学びのおかげで今があることに、心から感謝しています。一方で、いただいた教えを「あくまで参考程度に留めている」のが正直なところです。この姿勢こそが、私にとっての「自灯明(じとうみょう)」という言葉の持つ意味だと感じています。

自灯明:お釈迦様の言葉。「自分を灯明の明かりとして進みなさい。」という意味。詳しくは、過去のブログにお越しください。

生まれてから受けてきた教育や指導は、その当時の環境や教えてくださった方の考えに基づいています。だからこそ、その教えには間違いなく一理ありますし、現代の私たちにも当てはまる可能性や、試してみる価値があります。それらを学ぶことは非常に有意義です。

しかし、どんな素晴らしい教えであっても、それを絶対的な真理として「妄信」することは避けたいのです。大切なのは、それを「かもしれない」「そういう考え方もある」という、ほどよい距離感で受け止めることです。そして、実際に試してみて「これは自分には合わないな」と感じたなら、ためらうことなく手放せる軽やかさを持っていたいと思います。

かつて、ある学者さんがテレビで、「戦争に負け、それまで現人神だと信じていた天皇陛下の教えが覆りました。偉い先生方の教えは全て嘘だったんだと愕然として、何も信じられなくなりました」と語られていました。ニヒリズム(虚無主義)に陥ったというのです。

これこそ、何かを絶対的な拠り所としてしまうことの危険性を示しています。社会や環境、人の考えは必ず変化します。だからこそ、唯一の数少ない拠り所として頼れるのは、「今、ここでの自分自身のそのままの考え、感じ、感覚」なんだろうと思うのです。自灯明とは、まさしくこの自己判断の重要性を説く言葉だと捉えています。

とはいえ、もちろんこの考えだって、明日は変わっている、手放している、否定している、リニューアルしているのかもしれません。常に素直に柔軟でありたいと思います。(これだって、どうなるかわかりませんが(苦笑))

カトリック布池教会 カトリック布池教会 カトリック布池教会
カトリック布池教会 カトリック布池教会
愛知県名古屋市東区の、カトリック布池教会の聖堂と聖マリア像
※私は、浄土真宗のお寺の檀家の家庭で育ちました。

投稿者プロフィール

青木 亮
青木 亮くれたけ心理相談室(名古屋本部)心理カウンセラー 産業カウンセラー
こんにちは。広い空や海の開放感が大好きなものですから、
自分への日々のご褒美には、広い空間の体感かスイーツやお酒少々です。
皆さんの明日が今日よりも、明後日が明日よりもステキでありますように。

コメントはお気軽にどうぞ