(2024年9月1日作成)
挫折した人がどのように幸せになっていくのか
~競泳の池江璃花子選手から考える~
1.はじめに
オリンピック2024では、選手たちの活躍に魅せられました。幸せの絶頂の選手がいる一方、悔しさに打ちひしがれる選手もいました。競泳女子100mバタフライの準決勝に出場した池江璃花子選手が1組目6着となって決勝進出が叶わず、「なんのために今日まで頑張ってきたのだろうと、そういう気持ちです」と涙しました。
挫折を味わった人がどのようにして幸せになっていくのか。このプロセスのひとつのパターンの整理を試みます。
2.幸せとは何か:4つの考え方
このレポートにおける幸せとは、ロジャーズの説を軸とします。それは、「現実自己(実際の私)と理想自己(理想の私、あるべき私)のズレが小さい状態」です。この状態は自尊感情が高くなります。
軸とする考え方に加えて、補足する考え方を3つ、以下に示します。
a)幸せは以下2つで構成され、2つとも満たされている状態が最も望ましい。(アリストテレスによる)
①五感を使って得られる快楽・幸せ(へドニア)
②意義のあることに打ち込む幸せ(エウダイモニア)
b)ポジティブに感じる頻度が多く、ネガティブに感じる頻度が少ないと、精神がより健康である。(CES-D うつ病自己評価尺度から)
c)人は、マズローの欲求段階に基づき、ひとつ上の段階へと欲求が湧き続ける。
3.幸せになる2つの基本プロセス
幸せになるプロセスとは、現実自己と理想自己のずれを小さくするプロセスです。以下の2つです。
(1)現実自己を、理想自己に近づける。
例えば、アスリートがオリンピックのメダリストになるという目標を達成するケース。厳しい訓練で自分を鍛えて理想の私になれたから、エウダイモニアや承認欲求が満たされます。同時に、理想自己と現実自己のずれが小さくなることで、へドニアも満たされます。
(2)理想自己を、現実自己に近づける。
例えば、オリンピックを目指したアスリートが怪我をして引退するケース。理想の私を、現実的かつ合理的に修正したことでネガティブ感情の頻度が減り、精神はより健康的、へドニアの状態になります。
ただ、ここで疑問が湧きます。
高い理想を現実に近づける修正は、「あきらめる」「理想を下げる」ことを意味します。
この場合、この人は幸せになるのだろうか。
4.問い 「理想自己を現実自己に近づけて、幸せになれるのか」
この問いに対して、アルフォンス・デーケンの12の悲嘆のプロセスを参考にします。これは、巨大な「突然の喪失」に対して、人の心がどのように回復していくのかを体系化されたものです。巨大な「突然の喪失」とは、身近な人との突然の別れや、自分や自分の体の一部の突然の喪失・余命宣告などがそれに当たります。
先の例で上げた、怪我で引退するアスリートは、選手生命が断たれる事態に遭遇したものですし、池江さんは信じていた決勝進出を閉ざす現実が突き付けられる瞬間は、まさしく突然の喪失に類似するケースだと思います。
□悲嘆の12の悲嘆のプロセス(デーケン)
1.精神的打撃と麻痺状態
2.否認
3.パニック
4.怒りと不当感
5.敵意と恨み
6.罪意識
7.空想形成、幻想
8.孤独感と抑うつ
9.精神的混乱と無関心
10.あきらめ-受容:
自分の置かれた状態を明らかに見つめ、
勇気をもって現実に直面しようとする
11.新しい希望-ユーモアと笑いの再発見
12.立ち直りの段階-新しいアイデンティティの誕生
このプロセスによれば、辛く苦しいプロセスを経て、10番目のあきらめ-受容に到達します。この段階で、ヘドニアに至ります。ただし、人はそこにとどまらずに、12番目のプロセスでは新たな理想自己を抱くようになるのだろうと推測します。しかしそれは、エウダイモニアに至る、苦しい旅路でもありましょう。
あきらめ・受容によりへドニアに至れば、再び満たされていないエウダイモニアを求めて動き出す、ある意味では他人の欲深さが、人の心理の常なのかもしれないと感じます。
5.問いへの解
[問] 目標を達成できなかった人は、どのように幸せになっていくのか。
[解] 目標を達成できなかった人は、理想自己をあきらめて現実自己へと下げて、一旦へドニア/幸せに至る。しかし理想自己はとどまらず、変容して再び現実から遠ざかる。つまり、一旦へドニアを手放し、エウダイモニアも獲得すべく、現実理想を近づけようと試みる。人は生きている限りこれを繰返す。
池江璃花子選手が今も苦しみのプロセスの最中にある可能性には、一定の期間を要することに意味があるとは思うものの、心が痛みます。いずれはヘドニアに至り、その後には、新たな理想自己を描き、エウダイモニアを獲得せんと取り組まれることと獲得されることを、切に願う気持ちです。
6.さいごに
挫折などの苦しみからうまく立ち直れない、その期間が長いケースに、心理カウンセラーは支援します。
一方で、苦しむ人が持つ力を信じて寄り添えさえすれば、自力で立ち直る可能性を大いに意識したいと思います。
海援隊の名曲“贈る言葉”は別れの詩でしょう。「人は悲しみが多いほど、他人にはやさしくできる」の歌詞がよみがえります。苦しい挫折こそがきっと、すばらしい理想を描かせ、エウダイモニアへと導いてくれるのだと信じます。
☆追記(2024年10月1日)
池江里佳子選手が、2024年9月25日に、ご自身のインスタグラムでコメントされました。以下はNHK記事の抜粋です。ヘドニアを獲得し、それを手放して新たなエウダイモニアの獲得の旅を始められたのだと思い、応援する気持ちです。
池江選手は(2024年9月)25日、自身のインスタグラムを更新し、5年前に診断された白血病の症状や異常が見られなくなった「完全寛解」を迎えたと報告しました。
この中で池江選手は「退院してからの生活は想像以上に大変で、退院後も別の大きな病気をしたり、精神的にも苦しかった時期もありました」と振り返りました。
そして「今でもとても長い5年間だったなと感じています。そんな5年間の中で2回のオリンピックを経験できたことは非常にうれしく思います」としたうえで「泳げるようになった幸せと、泳げるようになったことで感じる苦しさと、むなしさと、悔しさ。私の中には逃げるという選択肢はないので、これからもそんな自分と闘いながら全力で競技と向き合いたいと思います」とつづっています。